
【第15回】毛利の末裔から広島誕生へ 広島支店
第15回は広島です。ここには日本三景のひとつ「安芸の宮島」として有名な「神の島」、厳島があります。平清盛が平家興隆を物語る法華経他三十三巻を厳島神社に奉納(平家納経)し、海上社殿も造営しています。そして戦国大名毛利元就の歴史舞台でもあります。
安芸国の毛利氏
西の安芸国(あきのくに)、東の備後国(びんごのくに)と二つの令制国があった広島県。鎌倉時代に相模国厚木の毛利庄を発祥とする毛利氏の系譜、毛利時親(ときちか)は父の毛利経光(つねみつ)が安堵された安芸国吉田庄を継ぎ、小さな吉田郡山城を居城とします。これが安芸毛利氏の始まりです。
戦国最高の知将 毛利元就

毛利元就寿像/山口県豊榮神社
毛利氏発祥から数えて12代目、「戦国最高の知将」と後世に語り継がれた毛利元就(もとなり)が登場します。
中国地方は山陰にかけて9つの国を支配する尼子氏、山陽・山口地方、さらに九州北部にかけては大内氏が勢力を拡大。
元就は当初尼子氏に、その後尼子氏と対立する大内氏に仕えました。やがて大内氏の傘下にいた水軍を有する小早川家に養子を出し、さらに尼子氏から寝返った吉川家にも養子を出し、両家の勢力を取り込みながら(両川体制)、徐々に安芸国を固めていきました。
厳島の戦い
毛利元就の名を一躍轟かせた戦が「厳島の戦い」です。周防・長門の戦国大名大内義隆(よしたか)の家臣であった陶晴堅(すえはるかた)が主君に謀反を起こして自刃させ、実質的に大内氏の勢力を掌握。やがてこれと対立した毛利元就が全面対決をしました。
五分の一の劣る兵力でしたが、元就は戦いの場として狭い厳島に陶軍を誘い入れる作戦を立て、おとりの宮尾城を造り、さらに敵を欺くため二重三重の謀略を企てました。陶晴堅は数々の偽情報に騙される形となり、側近の慎重論も制して1555年9月、遂に厳島に2万もの兵を船で送り込みます。狭い厳島に大軍で押し寄せた陶勢は、明け方、毛利軍の三方からの奇襲攻撃で身動きが取れないまま混乱をきたし敗北。逃げ切れなかった晴堅も自害しました。戦いの勝利を決定づけたのが最後に参戦した村上・伊予水軍の働きでした。
元就はさらに大内氏の周防・長門両国を攻略するに至り一代にして中国地方8カ国を支配しました。
「三矢(さんし)の教え」は「三子教訓状」から
元就が三人の息子、隆元(たかもと)、元春(もとはる)、隆景(たかかげ)に宛てた書で、「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」があります。兄弟同士の不平不満や、養子先の繁栄志向や、臣下の反乱などからお家が断絶することを諭し、「兄弟、一族結束の教え」をよくよく伝えたのです。末永く毛利家を案じてのものでしたが、これを元に「三本の矢」の逸話が後世につくられました。
毛利輝元との広島城

広島城
毛利元就の孫・輝元は、毛利家長年の居城・吉田郡山城を出て、1589年に築城を開始し2年後に完成した城に「広島城」と名付け城下を整備。これが広島の始まりで、豊臣政権下では112万石を授かっています。
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるも敗北し、戦後37万石に大減封され周防国と長門国のみを安堵されました。これが後の長州藩。毛利氏が歴代藩主となって明治維新まで、家訓通り長く家名を維持しました。
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