
【第18回】アヘン戦争から上海、「租界」へ 上海支店
第18回は、中国最大の国際都市、上海です。7世紀初頭の唐時代にあった上海浦という魚村が始まりです。英国とのアヘン戦争を経て開港した上海は、「租界」という外国人居留地の歴史を刻みました。現在、世界経済にとって重要なアジアの拠点のひとつ。そのエネルギーが人や街に溢れています。伝統とモダンが融合する不思議な魅力を有します。
英国、清との貿易で大幅な貿易赤字
15世紀の大航海時代から徐々に欧州列強のアジア地域への植民地化が強まり、欧州市場向けに、香辛料、コーヒーほか、現地栽培の産物の独占が始まりました。
世紀に入ると欧州では紅茶が大流行。英国は貿易国として清(中国)より紅茶、陶器、絹などを大量に輸入しました。一方輸出品は時計や望遠鏡などの一部のお金持ち向けに限られ、英国は大幅な輸入超過、つまり貿易赤字を生むことになりました。
これを解消するために英国が考えたのが、麻薬であるアヘンの輸出でした。すでに清では輸入禁止でしたが、密輸が拡大します。取り締まる役人に賄賂が横行し密輸が黙認されると、アヘンは一気に庶民に蔓延しました。清では紅茶の輸出額をアヘンの輸入額が逆転する経済問題となり、また風紀が乱れる社会問題が深刻化します。
アヘン戦争へ突入
清はアヘンを販売する者、吸った 者共に死罪という法律までつくり、また英国から入るアヘンを没収して破棄するなど、徹底的な実力行使にでました。これに怒った英国は海軍力をもって清の沿岸に砲撃したことから、約2年に亘る戦争状態に入りました。これが1840年に始まったアヘン戦争です。
結局1842年に清は敗北し、英国との間に不平等条約となる南京条約を結ばされました。
上海の開港と租界の形成。

1928年頃の租界(バンド)
南京条約では戦争での賠償金の支払い、香港の割譲、上海、広州ほか3カ所の開港などが条件づけられました。ここから上海の街は大きく変貌を遂げました。
英国は上海に外国人居留地となる「租界」を形成し、治外法権をはじめ、税制上の優遇を保証させました。フランス、アメリカなど欧米列強国もこれに続き租界をつくりました。
その後、英国とアメリカが共同租界を形成し、フランス租界とともに2つのエリアができ、インフラの整備、金融機関の進出などそれぞれに独自色を強めていきました。特に西洋建築の立ち並ぶ共同租界地域を外灘(バンド)と言いました。この租界の北部に1870年代で100人ほどの日本人が居住しはじめた虹口(ホンキュー)地区がありました。
上海使節団随行員 長州藩、高杉晋作
1862年(文久2年)、最初に上海を訪れた日本人の幕府使節随行員のひとりが、長州藩の高杉晋作でした。英国による半植民地支配の清国を目の当たりにした高杉は、日本国の将来を危惧し、帰国後さらに「攘夷」を目指します。このとき上海で買った短銃二丁のうち一丁を坂本竜馬に贈っています。
租界から国際都市へ
租界から国際都市へ 1920年〜30年代、上海租界はアジア金融市場の中心として、多様な人種が集い、商業、食文化、娯楽などで賑わう極東最大の都市に発展しますが、1941年の太平洋戦争を機に急速に終焉に向かい、1949年の中華人民共和国の成立以降、現在に至る国際都市へと再生しました。
上海タキゲン
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