【第4回】越後の虎が出現「新潟津から開港五港へ」新潟支店

上杉謙信

第4回は新潟支店です。戦国時代に越後を統一したのは、上杉謙信。守護代長尾家の継承者でした。時が経ち、幕末~明治には新潟港が開港5港のひとつとして重要な物流拠点となり、やがて新潟市が誕生。日本海側最大の都市へ発展しました。

守護代長尾家 下刻上で越後統一へ

南北朝時代より、越後国守護・上杉家に守護代(補佐役)として仕えた長尾氏は、代々その役職を世襲させました。やがて下剋上の戦国時代に入り、たびたび上杉家と対立。 その代表格が長尾為景(ためかげ)で、次男は1530年に生まれた上杉謙信でした。幼名を虎千代といい、14歳で初陣を飾り、15歳で元服し長尾景虎(かげとら)となりました。 数々の内乱や家督争いを経験し、19歳で兄の長尾晴景(はるかげ)の養子となる形で家督を継ぎ、越後国守護代を世襲。その2年後、将軍足利義輝に越後国主と認められ、22歳で実質的な越後統一を果たしました。

川中島の合戦 越後の虎から上杉謙信へ

上杉謙信の軍旗

上杉謙信の軍旗

戦の天才といわれた景虎は武田信玄との「川中島の合戦」が有名。米の収穫量が多い信濃北部の肥沃な土地をめぐり、幾度となく戦います。 最大の合戦が4度目の信濃川と犀川(さいがわ)に挟まれた「川中島」で起こり、他の戦いも含めて「川中島の合戦」と呼び、計5度12年間に及びました。 この間、1561年には関東管領の山内上杉家の養子となって関東管領の要職も引き継ぎ、上杉政虎(まさとら)と改名、同年将軍足利義輝より1字を拝命し輝虎(てるとら)と名乗りました。 こうして後世に「越後の虎」と呼ばれました。1570年41歳の時に上杉謙信と改めました。

「津」は港「新潟三か津」の攻防

越後には平安時代頃まで、日本海に注ぐ阿賀野川、信濃川の合流地点には蒲原津(かんばらつ)という港があり人々の往来も盛んでした。その後、阿賀野川の右岸には沼垂湊(ぬったりみなと)が現れ、戦国時代には信濃川の左岸に新しく新潟津(にいがたのつ)が栄え、合わせて「新潟三か津」と呼ばれました。特に蒲原津に代わって発展した新潟津は争いの末、上杉謙信が支配し栄えさせました。

謙信亡き後、養子同士の後継ぎ争い「御館の乱(おたて)」で勝利したのが上杉景勝(かげかつ)です。それに味方した新発田重家(しばたしげいえ)が恩賞の不服から乱を起こし新潟津を占拠しました。この奪還に景勝は6年もの時間を要し、遂に重家を討ち、新潟3か津を支配しました。

港町の発展で新潟市が誕生

旧新潟税関庁舎

旧新潟税関庁舎と新潟市のシンボルマーク。安政5年通商条約で指定された5港を表し、雪輪を冠しています。

新潟湊(みなと)は江戸時代には長岡藩領となり、北前船の寄港地として賑わい、町も商業都市として大いに繁栄します。幕末には開港5港のひとつとなりますが、時代は戊辰戦争へ。晴れて明治元年に開港し、翌年新潟運上所(新潟税関)も開設され、1889年には新潟市が誕生しました。

タキゲン製造株式会社 新潟

niigata〒950-0867
新潟市東区竹尾卸新町752-7
TEL:025-274-2500
営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:4台

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