【第8回】武蔵国の西、山城と織物のまち 八王子支店
第8回は、八王子支店です。都心から西へ約35キロ、自然が豊かな八王子の街があります。戦国時代は武蔵国の西の砦、また地場産業の織物のまちとして栄え、その後東京のベッドタウン、私大のキャンパス移転による学生の町など、時代に即した歴史を刻んできました。
北条氏の台頭と八王子城
戦国時代、小田原に本拠地を置く北条氏(鎌倉時代の北条氏とは別)の3代目当主、北条氏康(うじやす)が武蔵国(関東)から山内上杉、扇谷上杉を追い出した後に、その三男北条氏照(うじてる)が、山内上杉の重臣であった大石氏と婚姻関係を結び、滝山城の城主となりました。やがて、武田信玄から一度攻められた経験から、この城の防御の面に不安を感じた氏照は、山頂に八王子神社がある深沢山に、本格的な山城を新たに築き、八王子城と名付けました。城の鎮守という思いもあったようです。これが、現在の地名になったとされています。
悲惨な歴史の八王子城合戦
天下統一を進める豊臣秀吉にとって、小田原征伐を早めるためにも八王子城攻めは重要でした。秀吉側の上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍勢1万5千人が八王子城を攻めました。強固な造りの八王子城でしたが、城主の北条氏照と家臣たちは小田原城に籠っていたため、城にいたのは、わずかな将兵と、城下から集められた婦女子、農民、領民たち3000人だけで、わずか一日で陥落してしまいました。死者は1000人を超え、場内の多くの婦女子は自刃(じじん)し滝に身を投げました。滝から流れる水が三日三晩血に染まったと伝えられています。この一報を受けた小田原城では一気に戦意が喪失しますが、降伏するかどうか決まらない会議(小田原評定)が繰り返された末、遂に開城しました。
八王子千人同心の正体は?
江戸時代には八王子千人同心という幕府の家臣団が八王子にありました。元々は甲斐(山梨県)の家臣団でしたが、武田信玄亡き後は徳川家康に仕え、やがて関東管領になった徳川家康の江戸入府とともに、八王子地区の治安維持のため9人の頭と250人の同心が八王子城下に移りました。その後同心の数は増え、関ヶ原の戦いの際には実際に千人の同心が組織されていました。
機織(はたおり)と生糸の市「桑都(そうと)」八王子
八王子周辺は古くから養蚕(ようさん)や機織りが盛んで、「桑都」という美しい呼び方があります。安政6年に横浜が開港すると、武州(埼玉県)、上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などの生糸が八王子の市に集められ、ここから輸出する横浜港へ荷車や馬車で運ばれました。この道を「絹の道」と呼び、後に八王子―横浜間の鉄道横浜線が開通するまで産業上の重要な道でした。国の「歴史の道百選」にも選ばれています。
織物のまち八王子は太平洋戦争で苦境に立ちますが、戦後再び呉服やネクタイのまちとして復活を遂げました。ユーミンの実家、荒井呉服店もそのひとつです。
タキゲン製造株式会社 八王子支店
〒192-0063
東京都八王子市元横山町1-23-3
TEL:042-646-3001
営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:5台