【第10回】富士の眺めと北条早雲の初居城地 沼津支店

富士山(左)と愛鷹山(右)

富士山(左)と愛鷹山(右)

第10回は沼津支店です。沼津市は静岡県の東部、愛鷹山(あしたかやま)の麓で、伊豆半島の西側付け根に位置します。その名は、富士山の地下水による「沼」が多く、また港に適した海外線を意味する「津」があることから「沼津」となりました。江戸時代には沼津城の城下町、東海道の宿場町、海運の沼津港など交通、商業で栄えました。何といっても富士山の眺望が素晴らしいところで、明治以降皇室の御用邸や文化人の別荘も多くありました。

旧石器時代から 珠流河国(するがのくに) ⇒ 駿河国へ

旧石器時代中期には人々が住んでおり、愛鷹山麓からは遺跡や道具がたくさん見つかっています。縄文時代から弥生時代には人々も増え、農耕の技術も発達し、集落を形成するようになりました。大和朝廷が日本を統一した4世紀ごろには珠流河国となり、この地域にも権力者が生まれ、7世紀後半には「駿河国」という国名で統一されています。沼津という地名が、現存する文献で初めて出てくるのは、鎌倉時代の吾妻鏡です。

興国寺城(こうこくじじょう)後北条氏旗揚げの城

(左)歌川広重の東海道五十三次「沼津黄昏図」 (右)小田原城天守閣所蔵「北条 早雲」

(左)歌川広重の東海道五十三次「沼津黄昏図」 (右)小田原城天守閣所蔵「北条 早雲」

沼津市には、伊豆との国境に近いところに興国寺城がありました。室町幕府の守護職、今川氏の家督争いに尽力した功績から、1487年頃この城を与えられたのが親戚筋であった伊勢盛時(いせもりとき)で、後の北条早雲です。この時すでに56歳。初めて城を持ちました。この城を旗揚げの城として、その後韮山(にらやま)城に移り、伊豆国を平定したのを皮切りに小田原城の奪取、さらに関東制覇へ向かう戦国大名として五代、百年にわたる後北条氏の基礎をつくりました。歴史的には戦国時代に突入する最初の戦国大名として謳われています。北条早雲は後世に付けられた名前です。

三枚橋(さんまいばし)城の廃城から水野藩の沼津城へ

沼津には1570年頃、武田氏の駿河における拠点のひとつ三枚橋城がありました。それに対立する形で川を挟んで建っていたのが後北条氏の戸倉城で、両者は度々小競り合いを繰り返し、駿河湾でも水軍が海戦を行いました。最終的に武田勢が敗れ、武田勝頼・信勝の父子が自害し、ここに武田氏が滅びました。

三枚橋城はその後徳川家に明け渡されましたが、1614年には廃城。時を経た1780年(江戸時代中期)、後に江戸幕府の老中となる水野忠友(ただとも)(初代水野藩藩主)が2万石を得てここに沼津城を築きました。沼津はその後水野家8代に受け継がれ、5万石の城下町として栄えました。

「宝永の大地震」と「宝永の大噴火」

江戸中期の1707年には二つの大きな災害が起きました。10月4日(旧暦)にマグニチュード8以上の「宝永の大地震」が発生。遠州灘沖の東海沖地震と紀伊半島沖の南海地震が同時に発生し、津波の被害も含め死者2万人といわれています。そして続く49日後には富士山が大噴火を起こしました。これが「宝永の大噴火」です。この噴火では100キロの距離にある江戸の町が昼間でも暗くなるほど大量の火山灰が降り、2寸以上(5センチ以上)積もったと記録されています。これ以降現在まで富士山の噴火は起こっていません。

タキゲン製造株式会社 沼津支店

タキゲン製造沼津支店住所:〒410-0064
静岡県沼津市共栄町3-3
TEL:055-929-1001
営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:5台


次の記事【第11回】信長、初築城の地 小牧山からの飛躍 名古屋支店