
【第16回】大陸交易の玄関口 西海道の重要拠点 福岡支店

太宰府天満宮拝殿
第16回は福岡です。古代、律令制の行政区分・五畿七道の西海道(九州地方)として、大和朝廷の出先機関である大宰府が置かれ、外交・防衛の主任務をはじめ西海道の行政・司法を統治しました。また九州の交通の要衝として、西日本の経済圏として長く日本を支え、あらゆる分野で日本の歴史と関わってきました。
西の守りと地方行政 大宰府政庁の役目

大宰府政庁跡
701年の大宝律令制定後、西海道には本州の国々とは異なり、大和朝廷の統治機関として筑前(現福岡)に大宰府が置かれ、外交・防衛の重要任務を担う以外にも司法・行政を含め、中央政府の意向に沿って九州全土を統治しました。
元々いくつかの地方行政を司る役職として大宰(おほみこともち)はありましたが、大宝律令制定後に廃止され、政府機関としての大宰府は唯一九州筑前(福岡)を指すようになりました。この大宰府政庁に与えられた権力は非常に大きく、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。
菅原道真と「飛梅伝説」
平安時代に大宰府の副長官(太宰権師《だざいごんのそち》)に任命され、都より赴任したのが、出世し右大臣にまでなった菅原道真でした。しかしこれは政略による左遷そのものでした。この時、京の都を去る道真が詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名です。
都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へその梅が飛んできたという「飛梅伝説」も生まれました。亡くなった後祀られた大宰府天満宮は「学問の神」としてよく知られています。
大宰府の発掘調査跡は現在、「都府楼跡(とふろうあと)」として市民に親しまれています。
戦国から江戸時代へ 黒田孝高・長政親子

黒田 孝高(官兵衛・如水)

黒田 長政
時は経ち戦国時代から江戸時代へ。豊臣秀吉政権下で名参謀として活躍する軍師 黒田孝高は秀吉の九州征伐で功績を上げ、豊後(大分)の中津城主となった後、長男の黒田長政に家督を譲りました。その後、「文禄・慶長の役」でも父子で活躍しました。
黒田長政は秀吉が没した後、徳川家康に接近し、後の関ヶ原の戦いで東軍につき、大きな功績をもって1600年に徳川家康より筑前名島(福岡)に52万3千石(実録100万石に近い)の大所領を与えられ親子で入国しました。
福岡城の築城 初代福岡藩主
福岡で最初の居城は「名島城」(福岡市東区)でしたが、長政は翌1601年より6年の歳月をかけ新たな地(現福岡市中央区)に、東西1㎞、南北700mに及ぶ大きな城を築城し、城下町の整備も行いました。
しかし父の黒田如水(既に改名。1589年、官兵衛は家督を長政に譲り、如水と名乗り隠居しようとするが、秀吉の許しを得られなかった。実際に隠居したのは、1601年。)は城の完成を見ることなく1604年に京都で亡くなりました。長政は父に縁のあった備前国邑久郡福岡(びぜんのくにおくぐんふくおか)(岡山県)に因んでこの城を「福岡城」と名付けました。ここから長政は福岡初代藩主となります。海側からの眺めは鶴が羽ばたくように見えたことから、「舞鶴城(まいづるじょう)」とも呼ばれました。
海外貿易の大湊博多を要する筑前で、福岡初代藩主として長政は、活気溢れる町民とともに産業を大いに振興させ、商人の町として発展させていきました。
タキゲン製造株式会社 福岡支店
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