【第11回】信長、初築城の地 小牧山からの飛躍 名古屋支店

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第11回は、愛知県小牧市にある名古屋支店です。戦国時代、愛知県は尾張、三河という国で多くの戦国武将を輩出し、その代表格が天下統一へ向かう三英傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。小牧市は尾張の広大な濃尾平野の真ん中に位置し、中央にぽつんと孤立する小牧山に織田信長が初めて城を築いたところです。多くの戦国武将たちの野望が、ここ尾張、三河の地に描かれていきました。

尾張の大うつけと人質の竹千代

天文元年(1532年)、今川氏の居城であった那古野城(後の名古屋城)を奪取し、尾張内で勢力を拡大していたのが織田信長の父、「尾張の虎」こと織田信秀でした。信長も2歳にして那古野城の城主に。幼少期より奇行が目立ち、「尾張の大うつけ」と言われ、母からも距離を置かれていましたが、その豪快な性格が話題にもなっていました。同時期に今川家の人質で織田家に奪われた幼少の竹千代(徳川家康)とも出会っています。

尾張国統一は織田家の内紛から

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紙本著色織田信長像(狩野元秀画)

1551年、信長は父・信秀が死去した後の家督争いを通して、父が仕えていた織田大和守家(やまとかみけ)の清州城主の織田信友(尾張下4郡の支配者)と敵対していました。信長謀殺計画まで練られていましたが、遂には信友を討ち、自ら清州城に移り住み、かろうじて尾張の守護所を手に入れました。家督争いや織田家の内紛はなおも続きますが、1559年までにはすべてを収め尾張統一を果たしました。

戦国史に轟く「桶狭間の戦い」

翌年1560年5月、駿河・遠江・三河の三国を支配する戦国大名の今川義元が、兵力2万5千もの大軍を引き連れて信長の尾張に進軍してきました。一方軍勢4千足らずといわれ、はるかに不利にあった信長ですが、1560年5月19日、桶狭間への奇襲攻撃によって敵の総大将今川義元を討ち取り、一気に形勢を逆転させ大勝利を収めました。このとき今川氏に従属し別働隊で先行していた松平元康(徳川家康)は、義元の死を知り、岡崎城に引き返し、城下の大樹寺で切腹しようとしたそうです。

この桶狭間の戦いが群雄割拠の戦国時代に、大きな転換期をもたらしたという見方もあり、以降「本能寺の変」に至る、織田信長の天下統一寸前までの歩みが刻まれます。

清州同盟から美濃攻略へ

勢いを増した織田信長は、桶狭間の戦いから約2年後の1562年に、今川家から離れた松平元康と講和を行い、清州城を訪れた松平元康と「清洲同盟(織徳同盟)」を結びました。この後、松平元康は松平家康と改名しました。

清州同盟を結び美濃攻略に全力を注げるようになった織田信長は、1563年に美濃方面を一望できる小牧山(85.9m)に初めて城を築きました。「小牧城」です。南の清州城から北上し、居住を移すとともに、城下町も徐々に整備しました。1567年に目論見通り美濃を攻略した信長は、稲葉山城に居を移し岐阜城と改名。わずか4年間で主のいなくなった小牧城はやがて廃城となりますが、その後信長亡き後、徳川家康が羽柴秀吉との「小牧・長久手の戦い」で先に本陣とし、本格的に城を改修しました。これには秀吉も悔しがったそうです。天下統一はこの豊臣秀吉、徳川家康が実現することになります。

タキゲン製造株式会社 名古屋支店

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