【第13回】水の都は大陸との玄関口と流通拠点 大阪支店

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大阪城

第13回は大阪支店です。「水の都」の歴史は、港と水路の発展が大きな役割を果たしました。江戸時代には上方という呼び名で上質な各地の産物や品物がここに集まり、全国に流通するしくみをつくりました。上方から「くだる」ものは良いもので、「くだらない」ものは粗悪とされました。日本を背負う経済圏への発展は、水上交通と何より人々の明るさとたくましい商魂でした。

ほとんど海だった大阪の地

縄文から弥生時代の大阪はほとんどが海でした。南北に張り出した上町台地を中心に、東は生駒山まで入り込んだ河内湾(現東大阪市辺り)、西が瀬戸内海に通じる大阪湾でした。

古墳時代には湾がほぼ塞がった潟湖となり、やがて淀川と大和川の運ぶ堆積物により徐々に小さくなっていきました。この地形を生かし上町台地には難波津と呼ばれる港がありました。瀬戸内海を経由して九州、中国、四国地方の食料や物資の流通はもとより、ここを大陸との玄関口として大和朝廷に技術や文化をもたらしました。その成果のひとつが538年の仏教伝来でした。

幻の都「難波宮」(なにわのみや)飛鳥からの遷都

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難波宮史跡公園

645年の大化の改新により、本格的に大陸の政治形態を取り入れるため、港のある難波に飛鳥より遷都しました。これが難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で(現大阪府中央区辺り)で、前期の難波京です。

744年の奈良時代にも後期難波宮が成立しています。難波宮は永く所在地が判明せず、「幻の都」とされていましたが、前期・後期と高低差のある二つの壮大な難波宮の宮殿跡が大阪城公園の南側で発見されています。

石山寺の建立から大阪の町の原型

時を経て近世、室町時代の末には本願寺派の第八世蓮如が上町台地の北に寺院を建立し、石山御坊と呼ばれました。摂州東成郡生玉之庄内(せっしゅうひがしなりこおりいくたまのしょうない)にある「大坂」という地でした。後の石山本願寺です。境内には人の住む寺内町もつくられ、これが大阪の町のはじまりです。武装勢力として城郭化した石山本願寺は、その後織田信長と対立し、11年もの争いの末に信長に明け渡され、寺内町も消失してしまいました(石山合戦)。

豊臣秀吉の大阪城と水の都の形成

織田信長亡き後、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大阪城を築きました。城は元の寺内町にまで拡大され、その外側に新しい城下町を整備しました。やがて天下統一とともに臣下の大名たちの屋敷を建て、商人を呼び寄せ、一大政治・経済の中心都市を築き上げたのです。

その後、大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅び、本格的な徳川幕府の江戸時代に突入しました。西の湿地帯にもいくつもの堀川ができ、水路を全国から集まる品々を運ぶたくさんの船が行き交い、「水の都」大阪が本格的に形成され、江戸をはじめ、全国への物流システムが構築され、商業の町として益々発展していきました。こうして政治の舞台が江戸に移っても、上方大阪は「天下の台所」として、日本第2の経済都市として時代を支えていきました。
ちなみに「大坂」を「大阪」に正式に改めたのは1871年(明治4年)です。

タキゲン製造株式会社 大阪支店

osaka〒536-0004
大阪市城東区今福西2-12-10
TEL:06-6933-8001
営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:5台

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