
【第12回】時代を超えて「千年の都」京都支店

北山文化「金閣寺」
第12回は京都支店です。古くより朝廷の居住するところとして、権力者たちにとっても重要な場所であり、憧れの地でした。何をするにしても京都のお許しを得、京都の動きを知っておく必要がありました。また、文化の中心地として平安時代の貴族文化から現在に至るまで、独自の世界観を形成しています。平安遷都から約千年もの長きにわたって日本の都であり続けました。
平城京から平安京へ 桓武天皇の決意
大陸からの仏教伝来以来、国の権力は平城京を中心に展開されてきました。しかし、巨大化した仏教界に嫌気がさし、この大和国から脱して政治の立て直しを計ろうとしたのが桓武天皇でした。また天武天皇流が途絶え、天智天皇流に皇統が戻ってきたこともあり、その流れを汲むのが桓武天皇で、未開の地であった山城国(京都府)に遷都することを決意しました。
はじめに長岡京(784年)に遷都しますが、天災や近親者の不幸が続き、祟りとして恐れられたのを機に、長岡京から良い方角といわれる平安京に改めて遷都し直しました(794年)。都は中国の長安に習って、東西4・5㎞、南北5・2㎞の規模でした。ここから京都は日本の都として千年の歴史を刻んでいくことになります。ことに王朝文化として栄えた平安時代は、約390年間の平和で安定した時代でした。
武士の台頭
平安時代の後期には、院政を背景とした武士の権力が強まっていきました。最初の権力者が平清盛で、平氏の繁栄のきっかけをつくりました。やがて東に源頼朝の鎌倉幕府が誕生しても、朝廷の居住する都は京都で政治の中心でした。
足利尊氏による室町幕府も京都に置かれました。政治はもとより、文化の中心として、第3代将軍 足利義満は「北山殿」と呼ばれ、北山文化の金閣寺、第8代将軍 足利義政は「東山殿」と呼ばれ、東山文化の銀閣寺を建立し、純日本風の文化が花開きました。
京都を復興した「町衆」の力

「祇園祭」の山鉾巡行
戦国時代の発端となった応仁の乱で、約10年にも及ぶ内乱が続くと、京都市街は焼き払われ、荒れ果てました。そして約100年に及ぶ戦国時代に突入していきます。そうした中、織田信長、豊臣秀吉らの保護のもと、京都は市民階級の商工業者である「町衆」の力によって、文化的な復興を果たしていきました。その盛り上げの行事として今も引き継がれているのが「祇園祭」の山鉾巡行です。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、聚楽第、武家町、内裏や公家町などの本格的な都市改造整備も行いました。
江戸幕府の終焉が近づく幕末にも、京都が政治工作の中心地でした。天皇も徳川幕府も、またそれぞれ対立する地方の諸藩も、自らの勢力を維持するための活動をこの京都で繰り広げました。
東京遷都で千年の都に幕
明治維新後、政治の中枢が東京に移るとともに、皇室や公家が東京に居住を移したため、京都は人口も急減し、やや活気を失っていました。それでも京都は文化色を色濃くし、観光地として、また教育と学びの場としての地位を確立していきます。
現在、世界文化遺産がいくつもある日本を代表する世界的な観光地として、京都は多くの旅行者を迎えています。それは「千年の都」として、世界で注目をされる日本文化そのものです。
タキゲン製造株式会社 京都支店
〒601-8177
京都市南区上鳥羽馬廻43-2
TEL:075-661-8001
営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:5台