【第2回】戊辰戦争から北海道開拓へ「 仙台藩士が求めた 新天地」札幌支店

開田碑

明治16年、白石村に移住した人たちは白石米の第1号の収穫 に成功しました。その功績がうかがえる白生公園の「開田碑」。 (写真提供:札幌市白石区役所)

第2回は北海道の札幌支店です。北海道は誰もが憧れる豊かな自然と大地が魅力。しかし北海道開拓の歴史には、明治維新の人々の様々な思いと試練が刻まれていました。

幕末から明治維新への激動

徳川幕府から明治維新への新たな時代の幕開けは、戊辰戦争(1868年~1869年)で大きな転換期を迎えます。大政の奉還から明治新政府の王政復古の大号令に納得のいかない、旧幕府勢力や奥羽越列藩同盟と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍との内戦は壮絶な様相を呈しました。代表的な戦いが「鳥羽伏見の戦い」「江戸城無血開城」「会津戦争」「上野戦争」「箱館戦争」です。

一年半近くにも及んだ悲惨な内戦は新政府軍が勝利し、やがて内外に日本の近代化政策を示すことになり、名実ともに明治政府が誕生します。

箱館戦争の五稜郭陥落から本格的な北海道開拓へ

箱館戦争の五稜郭陥落が戊辰戦争の最後となりました。新政府は本格的な北方開拓を推進するため、明治2年(1869)7月2日より政府の官庁として開拓使を設置し、8月15日には蝦夷地から北海道と名称を改めました。

道南だけだった開拓使は北海道の中心部に本庁を設けることになり、明治4年に開拓使庁が函館から札幌に移されました。

仙台藩の白石城主の家臣たち

戊辰戦争の敗北で白石城主(現宮城県白石市)、片倉小十郎の家臣たちは家も職も失くしました。途方にくれた家臣たちは、新政府が進めた北海道開拓の入植者として移住を決意せざるを得なくなりました。

明治3年に現在の登別市幌別に移住する者。また翌明治4年9月には600人余りが咸臨丸などの船で出発します。途中嵐に遭遇し船は座礁します(勝海舟が太平洋を渡った咸臨丸はここで最期を迎えます)。それでもアクシデントを乗り越え、函館、小樽を経て、陸路で石狩へ移動し、大変な苦労の末、10月に67人が札幌郡最も ちきさっぷ月寒に入植したのです。

白石開拓の若きリーダー、佐藤孝郷

北辰旗

開拓使の旗「北辰旗」

厳しい寒さに耐えながら懸命に原始林の土地を開墾し、驚くほど短期間で住居や道路を整備した旧仙台藩の入植者たち。この働きぶりに大いに感心した開拓使の岩村通俊判官(後の初代北海道庁長官)は、彼らの郷里に因んでここを「白石村」と名付けました。

明治5年の中ごろには104戸380人が移住しました。この間、一貫して入植者たちを率いたのが、22歳の若き元家老、佐さ藤とう孝たか郷さとでした。入植の手配、開拓使との交渉、また不安や不満を抱く家臣たちを束ねて懸命に支えました。開拓使はこの働きを評価し、佐藤孝郷は白石村の貫属取締兼戸長に任命されました。(貫属は士族の身分を保証された者)。孝郷は若者の教育にも力を注ぎ、医学や農業技術の人材の育成にも貢献しています。

札幌市白石区の誕生

白石村は昭和25年に札幌市に編入され、札幌市が政令指定都市になった昭和47年以降に白石区となりました。白石区のルーツとなる宮城県白石市とは現在でも国内友好都市として交流を続け、毎年ふるさと祭りなどで人の行き来を行っています。

タキゲン製造株式会社 札幌支店

タキゲン製造 札幌支店〒003-0030
札幌市白石区流通センター4-1-5
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営業時間:月~金曜日:8:45~19:00
駐車場:5台

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