【第3回】東北の雄 「独眼竜政宗の開いた杜の都」仙台支店
第3回は仙台支店です。62万石仙台藩の初代藩主、伊達政宗が開いた城下町。政宗は遅れてきた戦国大名といわれ、生まれる時代がもう少し早ければ、天下取りに打って出ただろうと語られるほど、才覚に長けていました。もしかしたら、仙台が日本の首都になっていたかもしれません。
守護大名から戦国大名の割拠
仙台地方の歴史を辿れば、奥州藤原氏の影響を受けた後、それを滅ぼした源頼朝の鎌倉幕府や足利氏の室町幕府の管理下に置かれ、戦国時代には宮城県北部の室町時代の奥州探題、大崎氏、東部には鎌倉時代からの留守氏、西部には国分氏、名取には粟野氏、秋保氏らがそれぞれ割拠していました。各氏は戦国大名として台頭してきた陸奥国守護職に就いた伊達氏と盛んに養子縁組を行い、また伊達氏も政略結婚を繰り返し、お家の存続や領土拡大を図ります。
若き戦国大名の登場
こうしたなか、伊達政宗は1567年に米沢城主伊達輝宗の嫡男として生まれ、幼少は梵天丸と呼ばれていました。5歳のころに疱瘡にかかり右目を失明したことが後の独眼竜政宗の所以です。その後教養も身に付け立派に成長。15歳で武士として初陣を飾り、18歳で伊達家の家督を継ぎ第17代当主となり、領土拡大を続けました。戦国大名である会津の蘆名氏、陸奥の佐竹氏らの反伊達勢力らといくつかの壮絶な戦いを続け、やがて蘆名氏も滅ぼしました。こうして東北地方の南半分を手中に収め、戦国時代末期(16世紀末)には実質的に奥州全土を支配する23歳の若き戦国大名となりました。
天下統一を目指す豊臣秀吉の圧力
小田原北条氏ともつながりのあった伊達政宗は、北関東への進出を視野に入れていましたが、織田信長の後を受けて天下統一事業を進める豊臣秀吉から、逆に北条氏攻めの小田原参陣を命じられます。やむなく服属しますが遅れて参加。結局秀吉は小田原征伐で北条氏を滅ぼし、天下取りへの最後の仕事「奥州仕置」に向かいます。秀吉の発令していた「私戦禁止令」をたびたび無視し、いくつかの合戦を続けたこと、また小田原参陣に遅れたことなどを踏まえ、秀吉は政宗に対して会津をはじめ約半分の領地を没収しますが、命と本領は保障しました。秀吉の天下統一はこうして実現しました。
仙台は、「千体城」「千代城」が由来
伊達氏が来る前から青葉山には「千体城」、後の「千代城」という居城がありました。元々、ここに千体仏があったことから「千体」と呼ばれていました。
豊臣秀吉没後、関ヶ原の戦いで西軍側に立つ上杉氏の進軍を抑えた伊達政宗は、東軍勝利後に家康の許可を得てこの地に居住を移し、1601年に本格的な山城を築城しました。このとき地名を「千代」から「仙台」と改め、仙台城とともに城下町の整備を行いました。現在の仙台の発展にもつながるまちづくりでした。関ヶ原の戦いの3年後(1603年)には徳川家康の江戸幕府が誕生しました。
タキゲン製造株式会社 仙台支店
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